2016/02/08

佐藤亜紀『吸血鬼』

吸血鬼というと貴族的な怪物を思い浮かべる者も多いだろう。医師ポリドリが詩人バイロンをモデルにして作り上げた吸血鬼やブラム・ストーカーが創造したドラキュラ伯爵などによって生み出されたイメージである。一方、民間伝承の吸血鬼という奴がいる。こちらには貴族的なところなどまるでない。何だかぶよぶよしたもの、もしくは死人、である。この作品ではウピールと呼ばれている。ジェキの村の領主クワルスキはこう解説する。
――吸血鬼だ、とクワルスキが口を挟む。――ゲーテが書いたような美女でも、バイロン卿が書いたような青褪めた美男子でもない。この辺で信じられているのはもっと野蛮なやつだ。よくある話では、最初は形がない。家畜や人を襲って血を吸うと、ぶよぶよの塊になる。更に餌食を貪ると、次第に人の形を整える。別の説では死人だ。生まれた時に胞衣を被っていたり、歯が生えていたりした者が死ぬと墓から出て人を襲う。大抵は余所者や嫌われ者だ。兵隊上がりもよくそう言われる。そういう人間は生きていても人の血を啜ることがある。赤ら顔で、尻尾があるそうだ。まあ、カリカチュアの小悪魔か小鬼だな。百姓の泥臭い迷信だ。(P170『吸血鬼』)

ジェキの村に赴任したヘルマン・ゲスラーに前任者のパネンカは一つの助言を与える。
パネンカは他にも何か言いたげだったが、言わずにしておくことにしたのか、少し考えてから話を変える。――おそらくあなたはあなたなりのシステムをお持ちだと思いますが、老婆心ながら、一つ助言を差し上げてもよろしいですか。(P11『吸血鬼』)

ここで出てくるシステムという言葉に注意しよう。わざわざ傍点まで付してある。ゲスラーの持っているシステムとは何か。
ゲスラーは頷く。――私は軍人ではないし、貴族ではましてない。なりたいとも思わないね。その方が万事うまく行く。それが私のシステムだ。(P40『吸血鬼』)

ゲスラーは軍人ではない、貴族でもない。マチェクに市民的と言われたように市民なのである。貴族のように上に立つ存在ではない。そんなゲスラーには目標がある。
村民は陛下から預かった大切な子供たちだ。今彼らの風体がどれほど見窄らしく、顔色がどれほど悪かろうと、二年後には、三年後には、彼がこの地を去る時には、慎ましいが清潔な服から覗く腕や首にはできものも虫に食われた跡もなく、揃って履き込んだ立派な靴を履き、明るい顔色で、おはようございますゲスラーさんと挨拶するようにしてみせよう。パネンカ? 糞食らえだ。(P15『吸血鬼』)

ゲスラーが村を去る時までに村民の生活を改善すること。これが赴任時にゲスラーが決意した目標である。村民は子供たちだ。となるとゲスラーは親ということになる。 しかしゲスラーは貴族ではないのである。市民である。ゲスラーにとって人間は平等である。
――そう、そういうことだ。君は村の人間かね。
――クワルスキ様の農奴です。
ゲスラーは手を振って打ち消す。――農奴なんかいないさ。皆等しく帝国臣民だ。
マチェクの青白い顔はまだらに上気する。(P32『吸血鬼』)

皆等しく帝国臣民なのである。帝国臣民に上も下もない。

ゲスラーは村人の言葉と限りなく近い言葉を話すが、その妻のエルザはそうではない。
――では、マチェク、もしかすると、言葉を覚えたくないのかもしれないの。言葉ができなければ、私と、家の人や村の人たちとの間には、透明な壁があるようなものでしょう。彼らの言うことややることは影絵芝居のようなもので、壁のこちら側から私は、何をしているんだろう、と眺めるだけ。彼らがお互いに話をしても、私に何を言っても、私はそれを聞かなくて済む。でも言葉を覚えたらそうはいかないわ。彼らが呻いたり、叫んだり、怒鳴ったりすれば、それは私のところまでやって来て、彼らの苦しみや、恐れや、怒りは私のものになってしまう。自分がそうしたいのかどうか、私にはわからない。(P45『吸血鬼』)

エルザと村人の間には透明な壁がある。エルザと村人は同じではないのだ。村人がどれほど苦しんでも、それはエルザの苦しみではない。村人とエルザは別の生き物である。だが共通点もある。
――私たちの教会と同じようなもの?
――私たちと同じカトリックだよ。典礼が違うだけだ。(P51『吸血鬼』)

村の教会も町の教会も典礼が違うだけで同じカトリックなのである。村人とエルザは全く別の生き物というわけではなかった。エルザに変化が訪れる。
 家の風景が変わったことに、ゲスラーが気が付くには暫く掛かる。
 エルザはもう部屋に籠りきりではない。台所でオラとあれこれ話しているのを見掛ける。甘い匂いが頻繁に漂う。食卓にはエルザの手になる菓子が出ることが増える。ヨラに髪を結わせながら、片言で話し掛ける。笑い声を耳にするのは久しぶりだ。食堂の窓からは、菜園の腰掛けに座っているのが見える。周りでは村の子供たちが遊んでいる。年嵩の女の子と真面目な顔で話し込んでいることもある。十歳くらいの子供が精々だ。村では、それより大きい子供は父親と畑仕事をし、母親と家の仕事をする。
 家に村の女たちが現れる。始終ではないが、食堂でウラジェクの細君と並んで刺繍をしているところを見た時には驚いた。ヤッセルの市に持って行くと売れるらしい。難しい顔で図案を描いていることもある。ゲスラーには特に代わり映えのするものには見えないが、とても独特の図柄だ、とエルザは言う。病人が出ると出掛けて行く。幸い、大病をする者はいない。
――奇特な奥様ねえ、とウツィアは言って笑う。――あんな掘っ立て小屋の中に、人形みたいに綺麗な町の奥様が入っていくところを想像すると、かなり不思議。(P93『吸血鬼』)
エルザと村人は親しく交わるようになる。子供たちに菓子を与え、病人が出ると出掛けて行く。エルザと村人の間の透明な壁は随分と小さくなったようだ。エルザは言葉も覚えるようになる。言葉を覚えるということは、村人の苦しみを自分のものとして感じるということだ。
――それにしてもこんなに短期間で、随分流暢に話せるようになったものだ、とクワルスキは辛うじて応える。
(略)
――マチェクに教わって練習していますから。村の言葉も、少しはわかるようになりました。(P108『吸血鬼』)
ゲスラーの伴侶であるエルザは村人との間に透明な壁を持っていた。村人の苦しみはエルザには関係なかった。しかし教会に代表される道徳によって、エルザは村人の苦しみを自分のものとしていく。そしてできる範囲で村人に救いの手を差し伸べる。上に立つ者の責務、ノブレス・オブリージュに目覚めるのだ。

村で次々に死体が現れる。だがそれは異常な屍体だ。
医者は屍体の横たえられた寝台に歩み寄ると、失礼、と言ってから着衣の裾を捲くる。オパルカは動揺するが、マチェクが押し止める。変だな、と医者は言う。
――死斑がない。(P96『吸血鬼』)

屍体には普通死斑ができる。 村で現れる屍体にはそれがない。まるで血を抜かれたかのような死に様なのである。そしてエルザも犠牲者の一人となる。しかしエルザの屍体は村人たちの屍体とは違う。
――腕と足に痣が出ている、とゲスラーは言う。(P208『吸血鬼』)
エルザの息は相変わらず苦しげで、掌を上に向けた指は異様に白く、ただその先だけが赤黒く変色している。額にも小さな染みが広がり始める。(P212『吸血鬼』)

エルザの屍体には痣が現れるのだ。

吸血鬼には二種類あること――貴族的な吸血鬼と民間伝承の吸血鬼――は既に述べた。ではこの作品の吸血鬼は誰か。それは名指されている。
――旦那衆は旦那衆で、百姓は百姓だこっつぁ。教えてくれさ。旦那衆が国を旦那衆のものにするのに、なんで百姓が死んだり手足もがれたりしんばんがぁて。割に合わんねかの。俺が何考えてるか言おうかの。余所者、っちゃ損得が自分らと違うもんのこんだ。だっきゃ誰が一番余所者だの。お前様だろがの。余所者がさんざんっぱら只働きさせて、挙句に兵隊にして、他人から国をぶん取るすけ死ね言うかの。そら人の血吸って太るのと一緒らの。
 ゲスラーは目顔でマチェクに止めさせようとする。マチェクは、無理です。というように頭を振る。
――土地をやる、とクワルスキは言う。――お前たちの土地だ。お前たちの土地の為だ。
 んっつぁんいらねえて、と言う声はクワルスキにも聞こえるか聞こえないくらいに低い。それから背後の村人らに向かって叫ぶ。
――見たか汝ら、こいが吸血鬼だで。(P275『吸血鬼』)

クワルスキはマチェクの父親によって、吸血鬼と名指され断罪される。そして自ら命を絶つ。吸血鬼は滅びた。

しかし吸血鬼は二種類いるのだ。そして村を徘徊しているところをエルザに目撃されたのは、ぶよぶよしたもの、民間伝承のウピールの方である。貴族的な吸血鬼ではない。士族(シュラフタ)であるクワルスキはウピールであるはずがない。ではウピールは誰なのか。

そのウピールとは農民上がりの妻ウツィアである。そしてそのウツィアの眷属となったゲスラーだ。ヤレクとマチェクの父親もそうである。

ウツィアは二種類の酒を持っている。一つはゲスラーに飲ませた赤い酒である。
ゲスラーを長椅子に座らせると、ウツィアは小さなグラスと瓶を出して、横に腰を下ろす。瓶の中は鮮やかに赤い。ウツィアはグラスにその液体を注いで勧める。
――実家から来たんだけど、取って置きよ。
ゲスラーが飲むのを、ウツィアはじっと眺めている。果実の香りがする。何の香りだろう。柔らかい口当たりに誘われて、ゲスラーは飲み干す。恐ろしく強い。ウツィアは小娘のように笑うと、自分のグラスを取って気持ちがいいほどの勢いで飲み干し、小さな桃色の舌を出して縁をちろりと舐める。(P131『吸血鬼』)

もう一つはクワルスキが飲む透明の酒だ。
――ヤンがきっちり脅したよ。大丈夫だ。震え上がっていた。酒はあるか。
寝台の下だ、とクワルスキは答える。――女房が隠している筈だ。
いずこも同じだな、と言いながらバルトキエヴィッツは寝台の脇に屈み込み、グラスと瓶を出してくる。中身は氷のように透明だ。栓を抜いて匂いを嗅ぎ、こんなものを飲むのかね、奥方は、と言う。(P139『吸血鬼』)

クワルスキが飲む酒は血の色ではない。

ゲスラーは最初から吸血鬼だったわけではない。彼は最初は人間だった。だがマチェクの父親が予告したように彼は別人になる。
父親は頭を振る。――よおいるんだて、ああいうのは。いい人だ、いい人だ、っていいように追い使っている、自分もわからんとこで、ぴきっと行く。したら別人だ。何仕出かすか知れたもんじゃねえの。お前も気ぃ付けた方がいいで。(P59『吸血鬼』)

ではいつゲスラーは吸血鬼になったのか。それはエルザの首を斬り落とした時である。エルザの首が斬り落とされるのを見てゲスラーは失神した。ウツィアが言うように、それは人にはできないことだった。 人には、だ。人ならざる存在、吸血鬼にならできる。ゲスラーはあの時に死んだのだ。そして吸血鬼として甦った。新たな存在となった悪代官ゲスラーにいつもと同じ食事はもう無理である。
――食事を頼む。
――何にいたしましょう。
――いつもと同じだ。
――無理だと思いますよ。
ゲスラーは自分の腹に相談してみる。震え上がっているのがわかる。
――そうだな。ではスープだけだ。葡萄酒も付けてくれ。一杯だけ。(P228『吸血鬼』)

この葡萄酒はきっと血のような赤葡萄酒だったに違いない。

エルザの首斬りとは何だったか。それはノブレス・オブリージュの処刑である。村人の屍体には死斑がなかった。エルザの屍体には痣があった。村人の屍体とエルザの屍体は同じものではない。同じものではない屍体の首を同じように斬ること、町育ちのエルザの首を村人の首と同じように斬ること、これによって平等のシステムが村人の頭に刻み込まれる。人々の上に立つ調整者は平等の世界には存在しない。エルザの首を斬ることによって、ゲスラーの平等のシステムは村に顕現し、ノブレス・オブリージュの居場所はなくなったのである。

屍体の首を斬るのはおぞましい行為ではないだろうか。だがゲスラーはそれを純粋に精神的な公衆衛生上の手段と言ってのける。そこに道徳が及ぼす響きはない。
 案の定、司祭は恐ろしい目付きで睨み付けてきて、一歩も敷居を跨がせようとはしなかった。仕方がない。一目で呪われた男だと見て取ったのだ。ゲスラーは苦笑いする。この私が。五十絡みのどこからどう見てもぱっとしない小役人が。しかも一体何にどうして呪われたのか見当も付かないと来ている。なるほど、信仰はない。理神論さえ信じない。事実上の無神論者だ。信じているのは社会を支える原則としての教会の権威に過ぎない。人間の心の中に厳として道徳が存在するなどと信じることはとっくに止めた。とは言え、ないならないで何とかならないものでもあるまい――例えば、常に悪を欲して却って善をなす、あの力とやらに頼れば。
 ゲスラーは帽子を脱いで、積もった雪を払い落とし、被り直す。手で外套を払う。雪は細かく軽く、湿雪より余計冷たい。その間、足踏みは止まっている。目は閉ざされた扉に向けられたままだ。いや、何やら怪しげな霊的存在を召喚するとかそういう訳ではなく、と彼は続ける。利己心と利己心が拮抗して身動きが取れないような仕組みを作ってしまえば、結構うまく動きはしないかな。強欲と虚栄、羨望と怠惰が睨み合いながら作り上げる調和の世界。だがそこで、心の底に疼くものを感じる。美徳への郷愁、とでも言うか。さあ、笑っていいぞ。おや。何も言わないのか。それはまたどういう訳だね。確かに私の心の中にもまだ、美徳への郷愁くらいはあるさ。そしてそれがこの上なく苦痛なんだ。(P174『吸血鬼』)

屍体の首斬りは教会が代表する道徳への挑戦ではない。ゲスラーには既に道徳そのものが存在しないのだ。それは郷愁として時折心の底を疼かせるものと成り果てている。彼にとっての善とは自由競争である。各個人が自己の利益を最大限に追求することによって、需要と供給のバランスにより自動的に調和が達成される。この原則こそが善なのだ。だからもう教会は必要ない。そんなものがなくとも人々が好き勝手に自己の利益を追求していれば自然と調和は達成されるのだから。調停する神は必要ないのである。

ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』でヴァン・ヘルシング教授はこう語る。
しかし、とにもかくにも勇気を持ち、利己的にならず、ちゃんと責任を果たさねば。そうすれば、万事うまくいくのだからな! (位置no.3880『吸血鬼ドラキュラ』)

同じ19世紀を舞台にしていながら、1897年に刊行された『吸血鬼ドラキュラ』と2016年に刊行された『吸血鬼』では作品世界における美徳が違うことがわかるだろう。19世紀には利己的にならないことが万事うまくいく秘訣と考えられていた。21世紀では利己的になることが万事うまくいく秘訣と考えられているのである。

ゲスラーのシステムとは、軍人でも貴族でもなく、市民であることによって万事がうまく行くというものだった。上に立って全体の利益を調整する者がいない方が万事うまく行くというのが彼のシステムだ。赴任時のゲスラーは村民の生活を改善するという目標を持っていた。だがそれを実現するにはゲスラーの平等というシステムは非常に相性が悪い。上も下もない平等の世界とは、自由競争の社会である。誰かが上に立って、時には自分の利益を度外視してまでも社会全体の利益を考え調整する社会ではない。人々が利己心を発揮してお互いに争い合えば自然と調和が達成される社会である。だが一旦格差が広まるとそれは縮めようがない。ますます広がるばかりである。平等な社会なのだから金持ちにはノブレス・オブリージュを発揮して自らの富を再分配して格差を縮める責務などない。自由競争の社会では自己の利益を追求することこそが善なのだから。そうしていれば調整は勝手になされる。平等な社会の金持ちはこう信じているのだから。富める者は、親が子供の面倒を見るように、貧しい者の面倒を見たりはしないのである。

それにしても首を斬るのが流れ者のヤレク、非正規労働者というのは皮肉なものである。非正規労働者は簡単に首を切られるのだから。

大奥様の頃には上に立つ者の責務、ノブレス・オブリージュはまだ残っていた。
――百姓女の戯言と思っていただいて結構だけど、作男を纏めて住まわせていた頃の方が、作高は高かった。変な話でしょう。でも、それには理由がある。あの頃は農具は全部貸し出していた。結構な出費だけど、できるだけいいものを揃えてたし、牛に引かせて深く耕すこともできた。広い範囲を一気にやれたから仕事も早かった。二番目に、食事は全部こっちで準備してた。まさか宿舎で飢え死にさせる訳にもいかないから、贅沢じゃないとしてもちゃんとしたものを食べさせてた。日曜には肉も出した。今みたいに食べるものも食べてない風じゃなかった、って言ったら、信じるかしら。パネンカに言われて義母が彼らを散りぢりにする前は、村全体で今より二割か三割増しの収穫があった。理に適ってる?(P55『吸血鬼』)

だがパネンカによってノブレス・オブリージュは取り除かれる。そしてクワルスキにはそれがない。川が増水して収穫高が減っても彼は指一本動かさなかったし、自分が猟をしないにも拘らず猟場を村人に解放もしない。賦役日数も減らさなかった。そんなクワルスキも一連の事件を経てようやくノブレス・オブリージュを発揮し始める。猟場を解放し、ついには土地を農民に分け与えることを申し出る。
――ずっと考えてはいた。何もかも捨てる。屋敷も。土地も。土地は百姓に分けてやる。(P223『吸血鬼』)
富の再分配だ。だがもう手遅れである。彼の叛乱――ノブレス・オブリージュによる国家の立て直し――は失敗する。

クワルスキを追い詰めた急先鋒であるマチェクの父親はゲスラーに向かってこう言い放ったことがあった。
綺麗に包んだ雉を抱えて、マチェクの父親は去る。去り際に戸口で自分の首を手の傍で軽く叩いて言う。
――俺が死んだら首を刎ねてくんなせえの。間違い無ぉウピールだすけ。(P241,242『吸血鬼』)

そう、クワルスキを吸血鬼と名指しておきながら、実は彼の方が自分で言う通りウピールなのである。つまりノブレス・オブリージュなど意識したこともない平等と自由競争の信奉者だ。
――銭でええがれすて。日銭だば週に五日でも六日でもええですこての。もっと働きてえもんは七日でも働くこて。塩鉱とか工場とかと同じれすて。でっけ土地でいっちゃん儲かるもん作るのに百姓雇って銭で払えばええがれす。ほいだば、お前さんとこは安い言うてもっと高ぅ払うとこに鞍替えもできるし、徒党組んで、もっと払わんば誰も仕事しねえ、言うて脅かすこともできますしの。俺だばまあ百姓なんかしませんの。自前で土地借りて牛でも飼うて、乳搾って売って、潰して肉も売って、糞も肥料で売って、冬場は山行って猟して猪でも売りますこて。ええ商売だ。百姓ってのは、本当んこと言えば幾らでも儲かる商売んがれすて。食うもんはどうしたって必要らがね。儲かる商売ってことになれば、金持った余所者が幾らでも来て地面買うて、人雇って、でっけ商売やるやろし、ほしたらぽおらんど人もへったくれもねえなりますの。あとは銭ばっかだ。すっきりするかねの。あん人はいらんこと言うてるがれすて。
 凄まじい未来だな、とゲスラーは考える。工場労働者の生活水準がさして高くはない、ということを除けば完璧だ。そしてその高くない水準も、彼らよりはだいぶましだ。マチェクは嫌な顔をしている。(P241『吸血鬼』)
自由競争の原理に従い、より高い賃金のところで働く。その際、どこの国かは問わない。労働者側だけではない。資本家側も自由競争の原理に従う。より安い賃金で雇える国へ進出する。その際、どこの国かは問わない。儲かる商売となれば資本は国境を越えて移動する。国家は労働者と資本の双方から崩壊に追い立てられている。これはすでに始まっている。子供を亡くしたウラジェクの兄たちだ。
――俺は末ですろも、兄らぁ申し合わせして逃散したすけ。(P77『吸血鬼』)

ウラジェクの兄たちは出稼ぎに行くと称して出かけ、そして帰ってはこなかった。国を捨てたのだ。彼らに国家への愛はないのだろうか。

マチェクの父親は言う。
――あれはなんか変な夢を見てる人だ言うには、姿見るだけでわかります。宗旨も違えば言葉も違うのに、おれたちはぽおらんど人だぁ、言うのも知ってます。村役人だの郡のお役人だのは余所者らぁ、言うのも知ってます。余所者を追い出せぇ、言うのも知ってます。だあども、御自分も余所者、いうことはころっと忘れてるんじゃねえですかの。銭出して買うたか偉ぇ人に貰うたか知らんけど、何百年か前にやって来て、ここは俺の土地だ言うて囲い込んで、中の人間は全部俺の農奴だ、言うて働かせて、そら昔は景気も良ぇてなんかの御利益もあったかもしんねろも、今はしんどいばっかだ。(P240『吸血鬼』)
クワルスキはポーランドへの帰属意識を説く。だがそれを唱えるクワルスキ自身も村人たちにとっては余所者に過ぎないのである。
――この国は独立する。余所者ではなく、我々の国になるのだ。
――我々、って誰だぁ?(P274『吸血鬼』)

クワルスキは我々という言葉で国民の一体化を呼びかける。彼は詩人――言語・イデオロギーの統一・中心化を志向し、「国民の言語」を創出する者――である。だが実態としては、その我々に村人は入っていない。ヤンが言うように「この国で国民と言えるのはまだ士族だけ」(P233『吸血鬼』)だからである。
――何でもいいですよ。あなたは根本から勘違いしています。いいですか。オーストリアがここを支配するのは我慢できん、とあなたは言う。ここはあなたの土地で、住んでいるのはあなたの農奴だから、彼らにもそれは耐え難い筈だと思い込んでいる。外れです。村の連中は、あなたの祖父が農奴の子供を木に登らせて、それを窓から狙って撃ち殺したことをまだ語り種にしてますからね。(P82『吸血鬼』)
実際に狙って撃ったかどうかはともかく、村の連中の心理的な現実としては、そのような扱いなのである。村人は国民と呼ばれるに相応しい待遇を受けているわけではないのだ。かつて景気が良かった時は国民であることにも利益があったろう。 だがすでに国民であることの利益は失われている。
――ただ人々は貧しいよ。それはかなり辛い光景だ。君は随分と繊細そうだから、見たら辛い思いをするかもしれない。私は慣れているがね。
――慣れるものなんですか。
――慣れるしかないさ。この辺りは最貧地域で、私はそこで仕事をする役人だ。
――本当に慣れるものなんですか。
ゲスラーは暫く黙り込む。――正直を言うなら、慣れないね。子供たちは裸足でこそないが、紐で括り付ける奇妙なものを履いて駆け回っている。腕を剥き出しにすると、出来物がある。十分に食べていない証拠だ。大人になる前に大勢が死ぬ。疫病が流行る時に真っ先に死ぬのは子供たちだ。賢い子供もいるが、読み書きも習えない。よほど幸運な子供以外はね。時々、泣きたくなるよ。それは変わらない。(P63『吸血鬼』)

村人の生活水準は棄民と言ってもいい状態にある。ならできるだけ条件の良い国に移民した方がましである。国家は余所者のものなのだから愛なんてない。

国家の崩壊は始まっている。それを防ぐためにクワルスキは村人に土地を与えて国民の統合を促そうとするのだ。
――あん方がやぁべお人なのはご存知ですの。
――理想家、という意味ではね。君らが、ウピール、という意味でどうかは知らんよ。私は違うと思う。(P239『吸血鬼』)
クワルスキはウピールではない。だが別の種類の吸血鬼ではあった。ドラキュラ伯爵、そしてそのモデルとなったヴラド三世が外国の侵略者から国を守るために戦ったように、クワルスキも国を守るために戦うのだ。緋色の長衣をまとって。クワルスキはかつて農民の妻を娶って身分の別を超えた秩序を作り上げようとした。その秩序とは階級闘争を克服した民族共同体――他者を排除することにより国民の社会的統一を実現し、国民を戦争に動員する暴力装置――である。クワルスキは土地を分配し、余所者を追い出せと扇動することによって、再び民族共同体を構築しようとする。しかしすでに手遅れだった。クワルスキは国民を戦争に動員することに失敗する。国民国家――総力戦の遂行者――というドラキュラ伯爵は敗北する。

そしてウピールの親玉ともいうべきウツィアである。彼女はゲスラーにこう語る。
お互いの利益について考えましょうよ、とウツィアは言う。――もし村全体の収穫高が、何年かは掛かるだろうけど一・五倍か、事によるとそれ以上になったら、あなたの手柄にならないかしら。うちが楽になるのは勿論よ。お百姓だってずいぶんましな暮らし向きになるでしょう。みんなが得をする。(P55『吸血鬼』)

ゲスラーはここに間違った合図を読み取る。みんなが得をするというのは嘘だ。得をするのはウツィアだけだ。ウツィアは余所から働き手を雇って甜菜作りを計画する。「でっけ土地でいっちゃん儲かるもん作るのに百姓雇って銭で払えばええがれす」を実行するわけだ。ここで雇うのは必要がなくなったらすぐに首を切ることができる非正規労働者である。かつての大奥様のように責任をもって養う正規労働者とは違うのである。余所から来た流れ者の非正規労働者にノブレス・オブリージュなど発揮してやる必要はない。使い物にならなくなったら捨てて新しいのを雇えばいいだけのことである。全てが終わった後にゲスラーはウツィアに醸造技師を雇うことを進言する。非正規労働者を安い給料でこき使い、その僅かな給料すらアルコールによって巻き上げる。人の生き血を啜る貧困ビジネスの完成である。

ノブレス・オブリージュを放棄し、自由競争の原理に社会の調整を任せたままでは、持つ者と持たざる者の格差はますます広がることになるだろう。それに伴い持たざる者の憎悪はさらに膨れ上がるだろう。

1846年ガリチアの虐殺。ルテニア人農民によりポーランド人貴族約1000人が殺された。

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この作品が新自由主義、格差社会、非正規労働者、貧困ビジネス、移民、国民国家といった現代の諸問題を包摂していることはわかるだろう。これは遠い国、遠い時代の話ではなく、我々が生きている社会の出来事である。だが作者はそれを直接には書いていない。ゲスラーはクワルスキに呼びかける。
――我々に残っているのは純粋に精神的なものだけです。違いますか。あなたの詩があれほど崇高なのは、精神的なものだからです。虚ろな、実体のない、影のような幽霊は、だからこそ時間をすり抜けて生き残る。世の中もいつかは、今あるようではなくなるでしょう。理想的な形にではないとしてもね。そうした幽霊がどれほどの力を持っていたかはその時に明らかになる筈です。あなたはその可能性に賭ければいい。物質的な世界の問題は物質的な世界の問題として処理するまでです。そしてそれはあなたの仕事ではない。私の仕事だ。違いますか。(P252『吸血鬼』)

もし作者が現代の諸問題をストレートに書いていたら、それは同時代の読者に消費されて終わるだけだったろう。異なる地域、異なる時代の読者の読みに耐える強度は持ち得ない。だが佐藤亜紀が書いたのは精神的なものだけである。それを「いま、ここ」の作品として読み解き、物質的なものとするのは、我々読者の仕事である。物質的なものは時間とともに朽ちていくが、精神的なものは時の風化に耐える。佐藤亜紀が提供しているのは、解釈そのものではなく、様々な解釈を入れる空の器である。器の中身は腐っても器は腐らない。

読者が作品と対話せずその可能性を圧殺する。それは作者を文学的な自死に追いやる。その時、我々読者こそが作者の生き血を啜る吸血鬼であるだろう。ヘルマン・ゲスラーの一人として、これを記す。


引用は下記によった。

佐藤亜紀『吸血鬼』(講談社、2016)
ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』(田内志文訳、角川文庫Kindle版、2014)